:: プロローグ1 密林

 崩れた天井から屋根に上がると、すぐ横から突き出た、これも崩れかかった塔の上に人影が見えた。

 塔は彼の背丈の倍ほどもなかったので、機能の落ちた彼でも割合楽に登れた。最上部に手をかけると、相手は遠くを見たまま手だけをひらひらと挙げた。
「よーお、ミズカネさんかい」
「……よう。いつからだ」
 彼の問いかけに、相手は挙げた手の指を三本立ててみせた。
「三日」
「三日だ!?」
「大声出しなさんな、消耗が早いぜ」
 柄にもなく頓狂な声を上げた彼に、相手はのんびりと返した。
「大丈夫さ、ここから動いてねえからな。……でも、ま、さすがにそろそろ、しんどいやな」
 そういうと、相手は彼ににっと笑ってみせた。この男がこんな調子なのは昔からなので、彼はそれ以上答えずその隣に腰を下ろした。
「で、お前さんはいつ起きたんだい。班長とは会ったかい」
 相手は、同じ問いを彼に返した。
「昨日だ、ちょうど入れ替わりに。……で、まだ吸ってるのか」
 彼は、相手の口元のキセルにあごをしゃくった。
「ああ、習い性でねえ。でもさすがに駄目だな、こう長いこと経ったタバコじゃ味がボケちまってただの煙だ」
「ボケたのはあんたの舌じゃないのか」
 かも知れねえな。苦笑いしながら相手がつぶやき――二人はひょいと下に目をやった。
 同じ気配を察したのだった。見れば、さきほど彼が出てきた天井――ここから見れば屋根――の穴から、二人を見上げる白っぽい人影があった。
「……なんだ、ノバシリじゃねえか。こっち来るかい」
 人影がうなずいたのを見て、相手は立ち上がった。
「じゃ待ってな。いま手、貸してやるから」
 相手が塔の崩れた外壁に足をかけて降りていくのを、彼は少々気をもみながら見守った。ずっとここにいたとは言え、三日も経てばエネルギーにさほど余裕はないはずだった。
 が、相手は危なげもなく屋根の上にたどり着き、そこで待っていた人影に今降りてきた道を指してみせた。
「そこのな、崩れてるとこから登って行けよ。ほら」
 人影……ノバシリは、言われたとおり外壁に手をかけ、慎重に足場を探った。相手は下から支えるように、その体を押し上げてやった。
 ノバシリが手の届くところまで来ると、彼……ミズカネは上から手を伸ばし、その体を引き上げてやった。ちっぽけなその体は馬鹿に軽く、あっさり塔に上がった。昔はこいつもすばしこかったんだが。ふとそんな考えがよぎった。
「そんじゃ、俺は寝に行くわ」
 下から呑気な声がする。見下ろすと、相手はもう穴の底でひらひら手を振っている。
「あ」
 手を振り返したミズカネの脇で、ノバシリが小さく声を上げた。
「トコヨ、わすれもの」
 見れば彼らのすぐ近くに、大きな輪のようなものが打ち捨てられている。
「……あら、いけねえ。投げてくれるか」
 それを片手で挙げ、ミズカネは下に声をかけた。
「いいのか。重いぞ」
「心配ご無用、てめえの持ちもんだ。慣れてるよ」
「忘れたくせに」
 軽口を叩きながら、ミズカネはそれを穴に向けて軽く放った。
 相手……トコヨはそれを片手で受け止めたが、次の瞬間、勢いに振られて後ろによろけた。
「おい、大丈夫か」
「あーあ、参ったね。退散、退散」
 その輪をひょいと引っ掛けて、トコヨはまたにやりと笑ってみせた。
「行き倒れるなよ」
「おやすみ」
 上から声をかける二人にトコヨは手を振り返し、その姿はすぐに隠れてしまった。
 塔の上の二人に、沈黙が降りた。
 そういえば、こいつとは仲が悪かったっけな。
 ぼんやりとそんなことを思ったが、それはひどく現実味の薄いことのように思われた。果たして本当に自分がそうだったのか、それすら曖昧な気がした。
(……一体、俺たちには何が残っているのだろう?)
 何しろ、一切があまりに遠い遠い昔のことだった。
「……なあ、見ろよ」
 ミズカネは、眼下の光景を目で指した。
「何にもなくなっちまった……」
 その視線の先を、ノバシリはただ見ていた。
 そこには、視界の尽きるまで広がる樹海。

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